REVIEW


 田中泯という試練  宇野邦一(立教大学教授・批評家)



むかし留学生だった時代に、パリに現れた田中泯さんに出会い、彼のダンスをもう30年以上見続けています。自分の思想的探求にとって、〈身体としての人間〉ということがずっと気にかかっていて、一生考え続ける問題になりました。美術館で、大学の階段で、都市の広場で、そこに突然舞い降りた異物のように静かにうごめき始める彼のパフォーマンスによって、確かに私の中で覚醒させられた何かがありました。かつて寺山修司は、その泯さんの肉体を、「遺失物」のようだ、と評したことがあります。これはすでに寺山の詩のようなものです。誰に属するのか、どこで生まれ、何のためにあるのか、わからない。社会とか、時代とか、意味とか、表現とかいう次元のおよそ手前にある生命がただ動いているが、もちろんそれはただ素朴でも自然でもなく、考えぬかれた行為のようである。あれから私はずっと泯さんから謎をかけられたようで、それはいまだ解けないのです。この映画を構想され実現された伊藤俊也さんも、そういう泯さんの謎に巻き込まれてしまったのでしょう。


最近は俳優としても強烈な演技をする泯さんですが、上演の記録は別として、ダンサーとしての存在そのものを、じかに映像化しようとする試みは、それほどなかったように思います。田原桂一、岡田正人をはじめ、少なからぬ数の写真家たちの、瞬間に賭ける試みが印象に残っていますが、泯さんのダンスの運動、生態そのものに深くきりこもうとする映像作品ということになると、とても難しいことになると感じてきました。その点で『始まりも終わりもない』は稀有な試みだと思います。泯という名前どおりということでしょうか、当然それは水を思わせるので、最初の渓流のなかの踊りは、羊水のなかで生まれるいのちのダンスでもあるのでしょう。いままで漠然と「水の民」と理解してきましたが、実は「民」は音を示すのにすぎず、「泯絶」、「泯没」というような言葉もあって、「泯」は、「ほろびる、つきる、みだれる、くらい、しずむ、まじる」を意味するとのことです(『字通』による)。「泯」は生よりも、むしろ死を意味し、身体の、衰え消尽していく、脆い面を表しているようです。しかし同時に、やはり、水のなかの民、水のなかの流れる生でもあっていいと思います。川や岩や砂や土やコンクリートの上の、さまざまな場面の踊り、特に新宿の路上を這って歩く裸体のダンスは鬼気迫るものでした。都市の光景とそこを流れる時間が、まったく変質してしまうのでした。

多くの場合ただ視覚で受けとるべきものと思われている絵画や映像を、触覚によって知覚するということがあります。セザンヌやフランシス・ベーコンの絵を、ただ視覚によって受け取ってしまったら、その価値は半分以下になってしまうでしょう。目はただ目であることによって敗北しているなどと言ったのは、偉大な先駆者土方巽でした。土方も寺山をも触発したアルトーは、映画とは、網膜にじかに触れる光の芸術であり、触覚的でなくてはならないと述べました。このことは、映画という「視覚芸術」にとって大きな試練にちがいありません。田中泯のダンスをとりわけ、それをとりまく物質の質感を大切にして映像化するというこの映画の方向は、そういう試みかと思います。 泯さんが終戦直前の大空襲のさなかに生まれたというエピソードや、水からやってきて水にもどっていく循環が、物語的展開にとって、とても重要になっていることがよくわかりました。それなら泯さん淋さんをとりまく不思議な人物たちの演技が何を意味するのか、ときどき特撮を交えた飛翔や炎などの演出効果が、ダンスの肉体的実存とどう結び合うのか、ふたりのダンサーの挑戦的な笑いは誰にむけられているのか、それらを読み解くことは、これから映画を見る人びとに委ねましょう。








 静謐で気負わぬ身体の黙示録  石井達朗(舞踊評論家)

 

 

70年代の中ごろ、新しさを感じられない当時のモダンダンスにはまったく興味がもてず、かといって暗黒舞踏のアンダーグラウンドの結社的な匂いは肌に合わず、双方に距離を置いていた。そんなとき、私のダンスに対する眼を開かせる「事件」が二つあった。ひとつは1975年の「ダンス・ナウ」と題されたイベントで、初めてアメリカのポスト・モダンダンスが日本に紹介されたこと。とくにトリシャ・ブラウンとシモーヌ・フォルティの、「踊る」ということに対するありがちな概念を根底から払拭し、しかもそれを力むことなく表現する自然体には眼から鱗が落ちた。 もうひとつは田中泯を初めて見たことだ。友人が演劇塾をやっている小さなスタジオのなか、田中は体毛を剃り落とした全裸でペニスを包帯でぐるぐる巻きにして横たわっていた。まるでその辺に転がっているモノのように。そして身体の違った部位が連動しているのか、していないのか、微動し始める。当時は確か、田中は自分の行為を「ハイパーダンス」と呼んでいたと思う。それがダンスであってもなくてもいい。そこにはただ、未だ名づけえぬものを虚空から掠めとるような、静かでふてぶてしい決意がみなぎっていた。 ポスト・モダンダンスでもなく、暗黒舞踏でもなく、田中泯という一つの生命体との出会いだった。

その後、現在に至る田中の活動は多岐にわたり、とても列挙できないが、1984年に私淑する土方巽からじきじきの指導を受けたこと、80年代半ばから山梨の白州に活動の拠点を移したことが、今の田中の血となり肉になっているように思える。映画『始まりも終わりもない』からは、そんな田中の血と肉が時空を超えてたちのぼってくる。それは滝壷そして清流に始まり、焼け落ちた廃墟であったり、ギラギラする太陽光線が皮膚を焼く採石場であったり、猥雑な都会のアスファルトであったりする。 「男」田中泯に対して、「女」石原淋が強い存在感を示す。今まで白州や東京中野のplan‐Bで石原が踊るのを見てきたが、ここにきて石原は彼女が身につけた演劇的なものをぬぐいさり、以前よりもリアルな身体の佇まいを見せている。石原はたんに男に対しての女ではない。ときに娘であり、ときに大いなる母としての存在にも見えるが、それ以上に、私には田中と石原はユングのいうところのアニマとアニムスのように思える。つまり男が内に抱える女性性(アニマ)、女が内に抱える男性性(アニムス)である。「私は、私の体のなかにひとりの姉を住まわせている」と言った土方巽のように、表現者の作業とは内なる他者と出会うことでもある。スクリーンのなかで田中と石原が出会うとき、その眼差しのなかにすでに互いを住まわせているような、緊張のなかに訪れる安寧の瞬間にハッとした。

70年代の「舞態」「ハイパーダンス」という呼称、そして当時の数多い田中のソロ公演が「Subject1、2、3・・・」と名づけられていたころは、踊り手としての主体というものが強く感じられる。これに対して、このところ田中のつかう言葉「場踊り」は、気負いのない響きだ。そこには劇場という「制度」により色づけされた空間をできるだけ忌避し、人々が生活し自然が息づく「場」に自らを明け渡し、その匂い、感触、温度や質感に呼応しようという意思があるだろう。「場踊り」という言葉をつかうずっと以前から、田中の活動は「場踊り」の連続だったのである。西脇順三郎の『旅人かへらず』の一節に「窓にうす明かりのつく人の世の淋しき」とある。シンプルで奥深い詩的世界。うす明かりのつく窓辺という「場」に横たわり、「絵」になるのは田中ぐらいしかいないだろう。 この映画のなかでもさまざまに情景が移り変わるのは、まさに場と身体の変容である。とりわけ印象に残るのは清流のなかを田中が流されてゆく冒頭。私は以前白州で、速い冷たい川の流れに身を任せて田中が「踊る」のを見たことがある。また、plan-Bでは、美術家の原口典之が設えた廃油のなかで全身を油で真っ黒にして動くのを見た。水も油も田中にとっては身体との関係性をとり結ぶ「場」にすぎない。映画のなかで田中の場踊りを活写するシーンがある。焼け落ちた家の黒こげの骨組み―これは恐らく美術を担当した高山登のものだろう。その一本の木材に、豹のように背中をまるくした田中がのっている。70 年代半ばに、初めて田中を発見したあの事件にも似た光景と瓜二つだ。個人的な感情が蘇って鳥肌がたった。長い年月を経て老いる身体。しかしそんな時間と空間の変容を真正面から穿つかのごとく、舞踊家の端正な心身がまさっている。

『始まりも終わりもない』は言葉がないだけに、いろいろなシーンが過去の映画への連想を喚起してくれる。燃える一本の木はタルコフスキーの『サクリファイス』、起重機で石原が宙に上ってゆくところはパゾリーニの『テオレマ』やフェリーニの『甘い生活』、うだるような暑さの砕石場で田中がたたずむ姿はパゾリーニの『アポロンの地獄』、山の稜線を半ズボンで歩く田中をロングで撮ったシーンはベルイマンの『処女の泉』、また古い家屋で陣痛のように激しくのたうつ石原の光景は柳町光男の『火まつり』・・・等々。これは劇映画というよりも、詩篇のように観る者の想像力に働きかけるこの映画の性格によるのだろう。 映像の「場踊り」の連なりに身を委ねていると、最後に都会の繁華街の雑踏を芋虫のように這いつくばい、高級ブランド店が立ち並ぶ大通りを十字架を背負うキリストさながら倒れこむ田中に出会う。後者は、日本の消費文化の中心ともいえる東京銀座のホコ天である。そこに放り込まれた田中の姿に待ち行く人たちの視線が集まる。強烈な異物感。鳴り響く「皇帝円舞曲」が場面を盛り上げ、映画の観客もホコ天の人々と同じく田中を目撃する共犯者となる。土方巽は晩年の講演で、『「自分のふくらはぎに部屋の外の景色を見せてあげようとする幼児がある」というようなことを本で読んだことがある』と語っている(『アスベスト館通信10』)。田中は見られるモノとしてだけそこにあるのではない。ふりそそぐ視線を体で乱反射させている。皮膚の細胞の一つ一つが辺りを見つめ、銀座の気配を感じているかのようだ。 安易な没入や思い入れを拒む、この静謐で気負わぬ身体の異化感覚こそ、舞踊家としての田中がハイパーダンスの時代から保ち続けてきたように思える。命と体と場が映像でしか語りえぬメタモルフォーゼを語る―『始まりも終わりもない』は、そんな無二の舞踊家田中泯の黙示録であるともいえる。








 ニジンスキーの飛翔と田中泯の落下―人間の生と死の円環  河原晶子

 

 

地球の創世記を想わせるような赤茶けた大地を全裸の身体をうごめかせて踊る田中泯。 大都会、新宿の歩行者天国の大通りで、休日を楽しむ人々の間を縫うようにして路上を這うように踊る田中泯。彼はまるでたった今大地から生まれた最初の人物か、あるいは他の惑星から舞い降りてきた異星人のようだ。大地から生まれた彼が首筋にかつぐ大きくて丸い石は、まるで巨大なたまご(・・・)のようにみえる。

田中泯は‘45年3月10日、東京大空襲の日に生を受けたという。人間の生と死は、おそらく彼の肉体の奥深くに刻印されているのだろう。スペインのフラメンコ・ダンスの偉大な芸術家アントニオ・ガデスが、生前に彼が悪名高きフランコ独裁が始まった‘36年というスペインの死とともに生まれた、と語っていた事を想い出す。田中泯とアントニオ・ガデス。自身が生を受けた時の身体の記憶はかくも鮮明で、しかも強烈だったのだろうか。 アントニオ・ガデスひとりではない。田中泯のダンスを観続けながら、私の中でこれまでに出逢った世界のダンサーたちのステージの記憶がよみがえった。ジョルジュ・ブニの踊る〈ボレロ〉や〈アダージェット〉。ピナ・バウシュの舞台で、踊るというよりも自身との魂の対話を身体で表現していたダンサーたち。歩行者天国の路上を這うように踊る田中泯と、突如流れてきたヨハン・シュトラウスの〈皇帝円舞曲〉の背筋がゾクゾクするような陶酔感は、これまでに何度もピナ・バウシュの舞台で体感したものだった。原点はおそらくドビュッシーの〈牧神の午後への前奏曲〉を踊るヴァーツラフ・ニジンスキーなのかもしれない。

ニジンスキーの飛翔(ひしょう)と田中泯の落下。ふたつは人間の生と死のすべての円環となってひとつに溶けあってゆく。西と東のダンスという創造世界に違いはないのだ。たとえば、大都会の路上で日常から遠く離れた奇異なパフォーマンスを繰り広げる田中泯をみながら、私はレオン・カラックス監督のオムニバス映画からの『メルド』を想い出していた。銀座の大通りの路上を銀ブラを楽しむ人々に暴力を仕向けるかのように疾走していった俳優ドニ・ラヴァン。彼の身体表現のありようはどこか“舞踏”と呼ばれる日本の前衛ダンスに似通ったものがある。カラックスとラヴァンは大野一雄や土方巽、あるいは田中泯の舞台を観たことがあったのだろうか?

そういえば、田中泯と20世紀の異才画家フランシス・ベイコンとの出逢い“田中泯、フランシス・ベイコンを踊る”という幸福の交歓もあった。NHK TVが企画した「人を動かす絵 田中泯 画家ベーコンを踊る」というドキュメンタリー番組で、田中泯はフランシス・ベイコンの絵画を背景にベイコンの世界から抜け出してきたような全裸の男の肉体の苦悩を息も止まりそうな緊迫感の中に表現していた。肉体の輪郭が溶岩のように流れ出してゆくようなベイコンの絵画の男たちは、声にはならない孤独の叫びを繰り返しているようだ。そして田中泯がこの映画の中で発する呻きや叫びは、そんなベイコンの男たちのそれのようだった。

伊藤俊也監督はこの映画を語るインタビューの中でさまざまな世界のアーティストたちの名前や文化遺産をあげている。フェデリコ・フェリーニ、ルイス・ブニュエル、キャロル・リード、そしてジュリアス・シーザー劇、ドン・キホーテ、ギリシャ悲劇のコロス……。彼はそんな趣向を〝私の中にあるアヴァンギャルド精神〟と呼ぶ。創造者と演者、映画作家と俳優の幸福の出逢いがここにある。田中泯と伊藤俊也監督も、これまでの私にとっては無縁の人だったけれど、この映画に出逢えたことで私はふたりの“創造”の世界の入口にはじめて立つことができたような気がする。かたちの見えないさまざまな業を背負って踊る男たちの中にたったひとり舞い降りてきた天女のような石原淋さんの姿は、まるでピナ・バウシュその女(ひと)のように清廉(せいれん)だった。