INTERVIEW


伊藤俊也監督インタビュー

 

――今回の企画の成り立ちから教えてください。

 田中泯さんとの出会いはかなり早くて、4本目の映画『犬神の悪霊』(1977年)からです。当時の前衛舞踊の人たちを集めて劇中で踊ってもらった中に泯さんがいました。その縁でつかず離れずつきあっていて、劇場の公演にしょっちゅう通ったり、彼が一時期拠点にしていた白州を訪ねたりもしました。そのうち泯さんのドキュメンタリーを作ったらどうかという話が持ち上がったのですが、わたしには最初からその考えはいっさいなかった。田中泯さんと組むときは、わたしの劇的な世界に出てもらおうと思っていました。そこで中勘介の「犬」という小説を映画化しようとしました。インドのヒンズー教の僧が、陵辱された回教軍の若い兵士に恋した女への嫉妬から、呪法によって自らと女を犬に化身させて肉欲に狂うという物語。これを泯さんの踊りで表現しようと思ったのですが、インドで女性が半裸になる撮影は支障があるということもあって中止。次に日本でやろうということになり、中世の熊野を舞台に悪党たちの話を構想しましたが、予算的に大きくなりそうで断念せざるを得なくなった。資金的な面で頓挫したのですが、物語を作りすぎのところが気になってきて、こうなったらもう、とことんストーリーというものを捨てて、人間というものをどういうふうに描けるのかということを目ざしました。


――ひとりの男の誕生から成長、老い、そして死の予感までというシンプルなコンセプトが、劇映画でも記録映画でもない不思議な世界の中に展開しています。
 田中さんは1945年3月10日、東京大空襲の日に産まれたと聞きました。わたしとは8歳違い。わたしは焼夷弾に追いかけられる空襲を体験しており、今では忘れられていますが、戦後3年目に約3,700人以上の犠牲者を出した福井震災を経験しています。そうしたわたしの体験も包み込みながら、解釈を前提とするイメージではなく、イメージそのものが何かを語ってくれたら、というかたちにしました。わたしから最初のスケッチとなるものを渡して、それに泯さんが応えるかたちで自分の人生、生き方を含めてイメージするところを書き加えて、といった交換を何度か交わしたあと、わたしが台本にまとめました。


――撮影所の劇映画育ちの監督にとって、これまでに撮ったことのない作品ですね。
  ドキュメンタリーは1970年代に日本テレビ系列の全社会部と連携して、ヨーロッパを席捲したイタリアの極左テロリスト集団「赤い旅団(ブリガーテ・ロッセ)」を追ってイタリア全土を取材した「テロと国家」と、イスラムパワーとオイル・パワーの現状を追って全世界に取材した「右手にコーラン、左手に石油」と2本撮っています。前者ではイタリアのモロ首相の拉致暗殺の再現劇を入れたり、オリンピック競技場でジュリアス・シーザー劇を上演して、最後は役者たちが現代のローマを駆け抜けるといったフェリーニばりのことをやってみたり、キャロル・リード監督の『第三の男』(1994年)にオマージュを捧げたり、ドキュメンタリーの中でいろいろとフィクショナルな仕掛けをやっています。1992年開催のスペイン・セビリア万博の日本館の映像を手がけたときは、ドン・キホーテと少年猿飛佐助が出会うという話をドラマとドキュメンタリーとアニメーションを融合させて描きました。東映というところで育ったわたしには劇映画の世界はあいかわらず魅力的なんだけども、そこからこぼれ落ちた、わたしの中にあるアヴァンギャルド精神というのかな、そういうものが今回の作品では、この齢になってむくむくと起き上がってきたのだろうと思います。


――田中泯さんの男につねに連れ添うように現われる女性像を演じる石原淋さんが印象的です。
 泯さんの案では最初、母親のイメージが強かったのだけど、あるときは母親、あるときは女……という風にしました。この役は石原さんに決めていました。彼女は泯さんのいま唯一のお弟子さんです。母親、女、そして最後に対峙するシーンで女の修羅から母親へという表情は、青年期に観て深い感銘を受けた、ルイス・ブニュエル監督の『忘れられた人々』(1950年)の母親と魔物が同居する表情の描写を重ねています。石原さんには事前に観ておいてとDVDを渡しました。彼女はわたしの思いにみごとに応えてくれたんじゃないかと思います。


――全篇に水、火、木といったモチーフで貫かれていますね。
 木、火、土、金、水、ですね。田中泯さんとイメージを固めるうちにそうなっていったのだと思います。だいたい泯さんて「さんずいに民」だものね、水(海)の民です(笑)。


――田中さんの身体性が映像のなかで克明に記録されています。
  撮影したときは彼は67歳ですか。滝壺のところに立ってる姿を見て、撮影の鈴木達夫さんと、ほんとに親からもらったいい身体だと、ほとほと感心しました。手脚が長くてね。たしかに尻のあたりは年相応に肉が落ちたり皺が寄ったりして若い人とは違うけれど、鍛えられたすばらしい肉体です。田中泯さん自身もこういうことができるのももうあまり長くはないという思いがあったので、急ピッチで今回の企画を進めました。ステージでの公演や場踊りといっていろんな場所で踊ったりするわけだけど、1時間あるいは1時間半なりの時間を連続して踊って燃焼するわけです。 そこに、特別の感興や感動が生まれるのですが、映画の場合はある分断を余儀なくされるので、そこのところは覚悟しておいてと言いました。今回の場合、分断はされてますが、その場は田中泯さんに任せるということで。彼は編集でどのように切り刻んでも構わないと言ってくれたんだけど。映画は冷やかに切り取りますからね、でも舞台の記録映像にはない、わたしと泯さんの共同作業ができたと思います。


――台詞のないぶん、音響の繊細さが印象に残りました。
  もちろん、伊藤監督の作品に欠かせない鈴木達夫さんの撮影と大島ミチルさんの音楽が大きく貢献しています。 浦田さんはじめ録音部ががんばってくれましてね、いろんな工夫やアイディアをありがたくちょうだいしました。ラストの歩行者天国のシーンで流れる「皇帝円舞曲」の盤も苦労して探し当ててくれて。田中さんは「あれ、大野一雄さんのテーマ曲だよ」と。偶然だったのですが。誕生したばかりで男が立てない場面での能、狂言的なモンタージュの効果音もうまく作ってくれた。鈴木達夫さんも寺山修司の一連の作品を手がけた人ですから、楽しんでくれたんだと思います。大島ミチルさんには自主製作だから大したお金は払えないとおそるおそるお願いしたところ、おもしろがってくれたようです。


――狂言回しの老人たちが目を引きますね。
  登場人物であり、目撃者でもある彼らはギリシャ悲劇のコロス(合唱隊)。これはおもしろいキャスティングができました。田中泯さんの推薦した首くくり栲象さんをはじめ、わたしと田中泯さんのコンビに興味を示してくれたベテランの俳優たちや特別ゲストと一緒に、田中さんの根拠地にしている桃花村で合宿生活をしながら撮影をしました。泥の中に浸かった彼らがゆっくり沈んでゆく場面での泯さんの踊りは、ほかの舞台でもどこでもできない最高のものです。泯さんが最後に退場するシーンで本物の雷が鳴ったんです。そのタイミングでふっと振り返るという動きになり、ひじょうにおもしろいシーンになったと思います。本映画のクライマックスシーンです。


――製作の伊藤プラネットは監督が今回のために立ち上げた会社ですね。
  伊藤プロダクションだとありきたりだし、おもしろくないから、スケールも大きく伊藤プラネットと。タイトルからずっと出てくる大きく丸い石はロケハンのときに偶然みつけました。田中さんは首筋に載せていますが、あれはすごく重いんですよ。さすがに鍛え抜かれた身体です。いまはわたしの家の庭に転がってますよ(笑)。


――公開を待ついまの心境は。
  やはり一般にはとっつきにくい代物かも知れないので、言葉を操ることに慣れた人々にお願いしたい。悪口雑言、なんでも大歓迎。ともかく、一般のお客さんに橋渡ししてもらいたい。見てくださった方々には、この映画で何を観たのか、何を感じたのか。それを知りたい。わたしはいつだってそうなんですが、振り子が大きく振れる。これを作ったから逆に、きわめてストーリーテリングのものがいろいろ頭に浮かんでいます。煩悩だけは去らないんですよ、この齢になって。想念が渦巻くかぎりはやりたいという気もちは捨てることはできない。それが自分流ですね。